2017(平成29)年度(第19回)1.国立大学法人 奈良女子大学

〇テーマ:

摂関院政期における喪服着用の研究

〇実施内容:

本事業は、摂関院政期(10~12世紀)における服喪慣習の特性、及びそれを形成した社会的背景を、喪服着用の在り方という視点に立って明らかにすることを目的としたものである。
その調査手法としては、文献資料を用いた検討が中心となるが、既存の刊本のみでは調査精度に問題を残すため、学外研究機関の所蔵する未翻刻史料(主として中世~近世に成立した部類記の類)から新たな情報の収集につとめた。史料調査は、宮内庁書陵部・国立公文書館・東京大学史料編纂所・西尾市岩瀬文庫において計4回実施し、調査を通して既存の刊本には所収されていない、古記録の逸文を発見するに至り、刊本から知り得る情報を補強することが可能になった。またそれと並行して古記録等に見られる喪服着用記事の悉皆的収集を行った。
研究成果の概要は以下に述べるが、その成果の1部を、平成31年2月27日に奈良女子大学で開催された、奈良女子大学大和・紀伊半島学研究所古代学・聖地学センター月例研究会において口頭報告の形で発表した(参加者7名)。本研究成果を論文化の形で発表することは現在準備段階であるが、日本史のみならず、広く歴史学研究者にアピールし得る媒体での発表を検討しているところである。

〇結果と考察:

日本古代において、中国から輸入された服喪制度は、いかなる展開をたどって慣習として定着するに至ったのか。この問題について事業実施者はこれまで検討を重ねてきたが、その慣習の中で喪服着用はどのように行われていたのかについては、日本が手本とした中国と同様、服喪の期間継続的に喪服を着用していたのではないかと、これまで推測していた。しかし本事業による調査検討を通して、日本古代、特に摂関院政期の貴族層において、喪服は、服喪期間中の継続的な装いとしては必ずしも機能してはおらず、むしろ服喪の開始及び終了を示すための形式的に着用を行っている傾向が窺えることが明らかになった。この傾向は、自身の血縁者に対する服喪においてより顕著であり、天皇などの死亡時に臣下が服喪を行っている場合にあっては、服喪期間中に朝廷などへ出仕する際は継続的に喪服やそれに准じる地味な装いをしていることも併せて確認された。
そもそも喪服には2つの機能があると考えられる。1つはその装い自体に付された何らかの呪術的・倫理的意味合いであり、もう1つは、服喪者(死亡者と血縁的・政治的に近しい人物)をその他の人々と区別するための指標としての役割、謂わば社会的機能である。当該期の日本において、喪服は通常の装束よりも織りの荒い、地味な色合いのそれらが用いられていたが、これらは親族や主君の死に際して、自分の身なりを構う余裕も無い程にその死を悲しんでいることを示す、或はその死を自らの罪として捉え、罪人のような装いをするという、中国の儒教倫理的な喪服の有り様を部分的に踏襲したものであると考えられる。
一方で、後者の社会的機能について考えてみると、如上の喪服着用の在り方は、本来的には服喪の期間継続的に着用するべきところを簡略化したものであり、その点において、喪服着用は形式化されている、換言すれば、喪服はその機能を低下させているという見方も可能であるのかもしれない。
しかしながら、そのような喪服着用が行われるようになった背景には、服喪者を非服喪者から分ける行為が、日本古代においては、喪服着用よりも籠居(一定期間、公的活動を断って自宅などに引き籠る行為)によって実質的にはなされていたことの現れであると想定される。服喪時に籠居を行う慣習は、摂関院政期よりも以前に遡るものであるが、特に10世紀以降においては、その時期に発展を遂げた穢れの観念と結び付き、死穢に触れた服喪者がその穢れを他に伝染させないために籠居を行うようになる。籠居をしている服喪者が公的活動を断っている以上、その期間、彼らがどのような装いをしているのかは必ずしも問題とはならない。摂関院政期にあって、喪服が服喪の期間中、継続的に着用されていないことにはこのような背景があったのではないだろうか。
現代日本において、喪服は葬儀の場に会する人間が、死亡者との関係如何を問わず一律に着用する衣服となっているため、服喪との関係はその点において希薄である。摂関院政期の喪服着用の在り方が、その後どのような展開を辿って現代に至るのかについては今後の検討課題としたいが、喪服を継続的に着用しないという点において、何らかの連続性も推測されるところである。

(国立公文書館での調査資料)