〇テーマ:
江戸時代土佐における葬法の研究-「火葬禁止令」再考-
○実施内容
本研究は、江戸時代の土佐(高知県)における葬法に関して、土佐藩家老である野中兼山が発令したとされる「火葬禁止令」を再検討するとともに、江戸後期に土佐藩士が著した日記から、その実態の究明を目指したものであり、主に以下の3つの内容に区分し実施した。①野中兼山による「火葬禁止令」の再検討②高知県内で調査③高知県外での調査
○事業の効果
まず、先行研究で野中兼山が火葬禁止令を出した根拠としている史料を収集し、再検討を加えた。先行研究では、後世の編纂史料を根拠にしつつ慶安4(1651)年前後に兼山が火葬禁止令を出したと指摘されているが、管見の限り兼山自身が発した法令を見出すことができず、後世の編纂史料でしか確認できない点を明らかにした。次に、近世土佐における火葬と土葬の実態を究明するために、土佐藩主の家文書である山内家文書(高知県立高知城歴史博物館蔵)に加えて、土佐藩士が記した『森広定日記』(記載期間1744~72年)全22巻と「燧袋」(記載期間1809~35年)全63巻(いずれもオーテピア高知図書館蔵)に記載される葬礼記事を収集した。その結果、寛文9(1669)年に死去した山内家3代目当主山内忠豊の葬儀において、忠豊自身は遺言で火葬を希望していたものの、後継者である4代豊昌は遺言に反して土葬としたこと、豊昌は自身の妻を土葬にすることを固執するなど、土葬への強い志向を有した点も明らかにした。併せて、近世後期の土佐藩士の葬儀でも基本的に土葬が採用されていたことを明らかにした。よって、近世の土佐では土葬が習俗として一般化していたのは事実であるが、少なくとも山内家当主は兼山の火葬禁止令を意識して葬法を志向しているとは評価し難いとの結論を得た。